「守」「破」「離」と、AIと人間と

先日ふと思い立って、寄居方面に赴いてみました。

寄居は”まちおこし”に本格的に取り組んでいるようすが伺われたのですが、

見渡せば 駅前の周辺にも新しい一般住宅が建ち、

かつては古風な日本家屋なども立ち並んでいたんだろうなぁという記憶の跡形も少し垣間見えて

やはり一度失った光景を戻すことの難しさを感じました。

 

散策していて「雀宮公園」へ。

ここは七代目松本幸四郎別邸跡地で 家屋がほぼない状態ですが、

1万㎡の敷地で見上げるともみじの木々がたくさん植えられていて秋の紅葉の見事さがイメージできます。

七代目というと現在は十代目ですので、曾祖父にあたるお方です。

ご著書によれば、秩父の長瀞と寄居の間七里の渓流が京都の保津川下りのような光景に似ていて魅せられ、ここに別荘を建てたのだそうです。

十代目松本幸四郎丈のご自身の座右の銘である「守破離」の文字を刻んだ石碑が敷地内にありました。

「守破離」は日本の茶道や武道、芸道に欠かせない考え方で

 

「守」は師や流派の考えや型を忠実に守り、身につけること

「破」は良いものを取入れ、心技を発展させること

「離」は新しいものを生み出すこと

 

あまりにもおなじみな言葉ではありますが、

芸道などの限らず、私たちの日常生きていくうえで必要な心技であると思います。

殊に、AI時代を生きる私たちにとっては、です。

 

「守」であれば、AIは人間以上に優等生であることは自明。

ただ、”身につけること”という面で身体を持たない状態では「守」は未完成ではあります。

 

仮に AIが身体を持ち、”自律”型が今後、発展していけば

一気に「破」まで再現が可能な気が・・・

 

しかし、残る「離」はどうか。

これは、表現者の”独創性”があぶり出される場です。

人間であれば、この”独創性”は発揮していきたいものですね!

たくさんの無駄骨を経てたどり着いた、その人なりの持ち味、みたいなもの。

この”醸成感”を出す努力をしていきたいと考えています^^。